『ラ・シルフィード』から『白鳥の湖』へ
〜バレエ・ブランの展開〜
海野 敏

『ラ・シルフィード』から『白鳥の湖』へ〜バレエ・ブランの展開
(財)日本舞台芸術振興会主催 東京バレエ団《バレエ・ブラン・シリーズ》公演プログラム 2002年6月(ノンブルなし。3p.)
 バレエ・ブランは〈この世ならぬもの〉を舞台に出現させるためのしかけ、異界を表象するための様式である。この様式は1832年の『ラ・シルフィード』初演において命を吹き込まれ、1895年の『白鳥の湖』蘇演において永遠の生命を得た。
 「ブラン」はフランス語の「白」。この「白」は、まず舞台を染める色のことだろう。典型的なバレエ・ブランは、白いチュチュをまとったたくさんの女性ダンサーが舞台を埋める場面である。また「白」は清らかで汚れがなく、聖なるものとみやびなもの、神秘性と非俗性を象徴している。バレエ・ブランで演じられるのは、幻想的で非日常的な世界である。その典型は、深い森で妖精と出会う物語だ。
 そして「白」の象徴する神秘性と非俗性を表現するための技法がダンス・アカデミックである。それは調和と均整美、軽やかさと優美さを強調する舞踊法であり、アン・ドゥオール(下肢の回外)やポアント(つま先立ち)を基本技術としている。
 要するにバレエ・ブランとは、「森の妖精」を典型とする異界の物語を、白いチュチュを着た女性ダンサーが、ダンス・アカデミックの技法に則って踊る場面と説明できる。

ロマン主義と古典主義
 19世紀初め、西欧の芸術思潮は古典主義からロマン主義へと大きく移り変わった。文学、美術、音楽で、この流れは共通している。ところがバレエ史では、『ラ・シルフィード』や『ジゼル』に代表されるロマンティック・バレエの時代(1830〜70年頃)が、プティパを中心とする古典バレエの時代(1870〜1910年頃)に先行している。バレエでは古典主義とロマン主義が逆転しているのだろうか。
 古典主義とは、合理と普遍性を尊重し、厳格に定められた様式に従って創作しようとする傾向である。これに対してロマン主義とは、情意と個別性を尊重し、伝統的な様式から解放されて創作しようとする傾向である。
 ロマン主義は古典主義に対抗し、これを乗り越えようとする志向だった。形式においては古典主義的な規範や秩序に反発し、内容においては神秘的で非俗的なものを好んで題材とした。典型的な題材は、恋愛、幻想、狂気、異界、異国である。文学ではハイネが恋愛の不条理を称え、美術ではドラクロワが革命の激情を描き、音楽ではショパンが詩情をピアノに託した。
 ところがその頃、バレエには古典主義的な規範がまだなかった。それが成立するのは19世紀末、プティパの時代である。反発すべき規範がなかったため、バレエは形式においてロマン主義的になりえなかった。それゆえロマンティック・バレエは、内容においてのみロマン主義的だったのである。
 バレエでは、古典主義とロマン主義が逆転しているのではない。まず内容においてロマン主義が台頭し、やがてロマン主義を内包しつつ古典主義的な形式が確立したのである。バレエ史においては、19世紀まるごとを古典主義の時代と言った方がよい。
 そして19世紀バレエのこの流れは、バレエ・ブランを中心に展開した。

ロマンティック・バレエの時代
 18世紀末、バレエ・ブランは浮遊と飛翔へのあこがれとして芽生えていた。『フロールとゼフィール』(1796年、ディドロ振付)は、ダンサーを初めてワイヤーで吊り上げ、飛行させた作品として知られている。1820年頃、パリ・オペラ座の女性ダンサーたちがトウシューズをはいてポアントで立つことに成功する。この技法の開発によって、軽快で滑らかな移動と優雅ですばやい回転が可能になり、生身のからだで浮遊と飛翔を表現できるようになった。
 一方、バレエ・ブランが題材とする異界=この世ならぬものを、バレエという芸術は早くから懐胎していた。『フロールとゼフィール』の主人公は風の精と花の精だったし、『眠れる森の美女』(1829年、オメール振付)には森の泉の精が登場している。
 1831年初演のオペラ『悪魔のロベール』に挿入されたバレエは、ロマンティック・バレエの先駆と言われている。夜、墓場に埋葬されていた尼僧たちがよみがえって踊る場面では、バレエ・ブランのシンボルである白いチュチュがすでに採用されていた。
 1832年、『ラ・シルフィード』(タリオーニ振付)初演において、妖精の物語とポアント技法とが結び付き、バレエ・ブランを中心に据えてロマンティック・バレエが誕生した。振付家の娘マリー・タリオーニがポアント技法を駆使して絶賛を浴び、彼女の名はロマンティック・バレエの代名詞となる。1841年、『ジゼル』(コラリ、ペロー振付)初演でロマンティック・バレエは最盛期を迎える。第2幕、死して夜の森をさまようウィリたちの踊りによって、群舞によるバレエ・ブランは完成したと言ってよい。
 異界を舞台とするバレエ・ブランを含む作品は、1840年前後に盛んに作られた。例えば殺された女性の亡霊が登場する『影』(1839年、ペロー振付)、水の精を主役とする『オンディーヌ』(1843年、ペロー振付)、オリエントの魔女たちが活躍する『ラ・ペリ』(1843年、コラリ振付)などである。
 ところで、ロマンティック・バレエの内容におけるロマン主義的傾向は、超自然的なものへの畏怖と異文化へのあこがれという二つの方向、つまり異界と異国の両面で展開された。後者の代表は『ナポリ』(1836年、ブルノンヴィル振付)と『海賊』(1856年、マジリエ振付)である。これらの作品において異国・異文化を表象するしかけは、民族舞踊をバレエ風にアレンジした「キャラクター・ダンス」だった。
 そして、西欧でロマンティック・バレエが衰退した後、ロシアでプティパが、異界を表象するバレエ・ブランと異国・異文化を表象するキャラクター・ダンスとを一つの作品世界へ統合したのである。

プティパとバレエ・ブラン
 バレエの古典主義的な規範はプティパの時代に成立した。例えば、全幕の編成法、グラン・パ・ド・ドゥの構造、キャラクター・ダンスを並べたディベルティスマン、バレエ特有のマイム、あるいは振付における様式的な造形美は、いずれもプティパが確立したものである。
 全幕の編成法においては、プティパは演劇中心の場面と舞踊中心の場面を分離し、さらに舞踊中心の場面をバレエ・ブランとキャラクター・ダンスに分離して、それらを対比的に配置するスタイルを確立した。
 1869年初演の『ドン・キホーテ』はスペイン舞踊をふんだんに取り入れた異国趣味の作品だった。しかし初演から2年後、プティパはこの作品に森の妖精たちが踊る「夢の場面」を追加している。バレエ・ブランとキャラクター・ダンスを対比させる編成法は、この頃に自覚されたのだろう。
 以後の全幕作品では、『ラ・バヤデール』(1877年)には阿片を吸って見る幻覚の中で亡霊が踊る「影の王国」が、『眠れる森の美女』(1890年)にはリラの精と森の精たちの踊りが、『くるみ割り人形』(1892年)には松林で雪の精たちが踊る「雪片のワルツ」が、『ライモンダ』(1898年)には白婦人の像の導きで見る「ライモンダの夢」が、それぞれバレエ・ブランとして織り込まれている。中でも「影の王国」はバレエ・ブランの傑作だ。何十人もの亡霊が一人ずつ同じ動作(アラベスク・パンシェ)を繰り返しながら登場する振付は、レピテーション(反復)とグラディエーション(漸増)という古典主義的な様式美がみごとな視覚効果をあげている。
 1895年蘇演の『白鳥の湖』は、バレエ・ブランとキャラクター・ダンスの分離と対比がもっともはっきりしている。第1・3幕はキャラクター・ダンス中心の振付、第2・4幕(イワーノフ振付)はバレエ・ブランである。その構図は人間界と異界の対立、此岸と彼岸の対峙を示唆している。素朴な異国趣味は脇におかれ、生と死、あるいは肉体と精神の関係が問われていると言ってもよい。
 プティパにとってダンス・アカデミックは、古典主義的な様式美、すなわち調和と均整の構造を実現するための技法だった。例えばポアント技法は単に浮遊と飛翔を表現するための技法ではなく、下肢で美しいラインを造形するための技法だった。彼の美意識はバレエ・ブランの群舞と独舞の振付によく現れている。
 要するにプティパの時代、バレエという芸術は、バレエ・ブランというロマン主義的な様式を中心に据えて古典主義的な規範と秩序を獲得したのである。

(東洋大学助教授 情報学)[肩書きは掲載当時]

このページのトップへ


関連ページ

Ballet

海野敏オフィシャルページ
海野敏のダンス評論活動 | Web3D舞踊研究プロジェクト
東洋大学 | 社会学部 | メディアコミュニケーション学科

このページのトップへ


   Copyright 2009 ©Bin UMINO, All Rights Reserved.