プティパからフォーサイスへ〜バレエの手触り
海野 敏

プティパからフォーサイスへ〜バレエの手触り
(財)日本舞台芸術振興会主催 パリ・オペラ座来日公演プログラム 1995年3月, pp.54-55.
 バレエには振付による触感のようなものがあって、プティパはすべすべなめらかで、バランシンはひんやりとして硬く、フォーサイスはざらざらしていたりつるつるしていたりする。西欧でいったん衰退したバレエがロシアで復活してからおよそ百年経っているが、振付における抽象の深まりという視点から見ると、百年の歴史をこの三人の振付家によって要約することができる。
 芸術における抽象とは、現実世界のものごとをすぐに連想させないような作品の成り立ちのことで、意味付け(物語性)の排除による芸術の純粋化、普遍化と言い替えてもよい。例えば、カンディンスキーやモンドリアンの抽象主義とは、色彩と形象のみによる純粋な絵画表現をめざした運動だった。振付の抽象を絵画の抽象との類比で安易に論ずることはできないが、とりあえず振付における抽象とは、身体のかたちと動きのみによる舞踊表現の純粋化、普遍化の試みと考えられる。ここでは、前述の三人の振付家の手触りを、一人のダンサーの動き(身体操作)における抽象と、複数のダンサーの動きの組み合わせと並べ方(空間的・時間的配置)における抽象という二つの視点から、いささか駆け足で語ってみよう。
 はじめに、プティパとバランシンはもちろんのことフォーサイスさえも、振付の根底にダンス・クラシックと呼ばれる技法があることを確かめておきたい。ダンス・クラシックの正体は、アン・ドゥオール(身体を開くこと)とエレヴァシオン(身体を引き上げること)を原理として、生身の肉体で空間を可能な限り広くコントロールするための文法である。このシステムは近代西欧で精緻に体系化され、そのためにバレエは、文学における小説、音楽におけるクラシックと同様、舞踊において確固たる陣地を築いている。

 マリウス・プティパ(1818〜1910)は、十九世紀後半までのバレエ史を総括しただけでなく、二十世紀に顕在化した抽象的バレエの先駆者であり、美術史におけるセザンヌのような役割を果たしている。まず一人のダンサーの動きに注目すると、彼の振付は踊りからのマイムの排除によって特徴付けることができる。これは、その時代にバレエがきわめて複雑でむずかしい技巧を必要とするようになったため、踊りをマイムから切り離さざるをえなかったという事情があったからなのだが、その結果、プティパの振付では踊りが物語から半ば自立していてパの連なりそのものが美しい。しかも動きの繋げ方にかどやでっぱりがなく水の流れるようにたいそう自然なので、その振付からすべすべなめらかな肌触りが得られるのである。
 複数のダンサーの動きの組み合わせと並べ方に注目すると、プティパの時代にはグラン・パ・ド・ドゥおよびディベルティスマンという二つの形式が確立している。いずれも物語からある程度自立して踊りそのものを見せる形式であるという点で、抽象の契機とみなすことができる。また、『パキータ』、『ライモンダ』、『バヤデール』に典型的に見られる群舞の美しさが、バランシンのプロットレス・バレエの前触れとなっていることは言うまでもない。

 ジョージ・バランシン(1904〜1983)は振付の抽象を初めて自覚し、徹底して追究した振付家である。彼の渡米以降の多くの作品には筋書きがなく、音楽とダンサーの動きのみによる純粋なバレエ表現が試みられている。バランシン作品に与えられた「視覚化した音楽」という呼称は、彼の振付のありようをよく表している。一人のダンサーの動きに注目すると、彼の振付は計算されていて無駄がなく、空間を包み込み刈り取るような軌跡を描く手足の動きには、効率とか合理性とかの匂いすら感じる。タイトでスピーディーで、それゆえひんやりとした硬質の美しさがある。
 複数のダンサーの動かし方には、幾何学的構図へのこだわりを読み取ることができる。例えば彼の代表作である『水晶宮(シンフォニー・イン・C)』や『フォー・テンペラメント』、あるいは『ウェスタン・シンフォニー』にしても、作品の構造が実に平易で似通っていて、まず四つの部分に分割でき、それぞれがソリスト(しばしば男女のペア)とコール・ド・バレエで構成されていて、それぞれの踊りに主題と変奏が与えられている。ダンサーの配置に絶えず均整美が求められ、アポロニウス的な調和と秩序が舞台を支配している。

 ウィリアム・フォーサイス(1949〜)は、いまも前衛的な活動を精力的に続けているので、現時点での評価はむずかしい。ただ、抽象の深化という文脈で彼のこれまでの作品を見ると、もはやア・プリオリに抽象で、彼の視線は抽象をはるかに突き抜けてしまっている。一人のダンサーの動きに注目すると、プティパ、バランシンが動きの連続と均衡に執着していたのに対し、フォーサイスは意図して動きを切断し、均衡をつき崩す。例えば『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』や『ヘルマン・シュメルマン』では、動きの始点と終点がまぎれもなくバレエのポーズで、瞬間ごとに目をこらしてみればバレエのパが連なっているにもかかわらず、従来のバレエとは全く異質の人工的で無機質な動きが無数に現れる。しかも、そのスピードが凄まじく速い。彼の振付はダンス・クラシックから出発しながらバレエを内側から解体してしまった。
 複数のダンサーの動かし方にしても、フォーサイスはバレエの構造をパズルか何かのように組み替えている。例えば『失われた委曲』や『アーティファクト』で、研ぎすまされた激しい群舞に酔っていると、唐突に一部のダンサーが踊りを中断してすたすた歩き始めたり、立ちすくんでいたダンサーが出し抜けに踊り始めたりする。ここでも切断が意識的に行われていて、踊りの手触りはいつもゆらいでおり、掘り出された鉱物のようにざらざらしていたかと思うと、磨き込まれた金属のようにつるつるしている。
 振付は、ダンサーによってはじめて表現される。この百年、ダンサーの骨格と筋肉は著しく変化したし、バレエの技術もますます高度化していて、プティパからフォーサイスへと少しずつ硬く乾いてきたバレエの触感の変化は、いまダンサーの変化によって加速されているように思われる。そしてフォーサイスの方法論は、バレエがこれからまったく別な触感を得る契機、例えばふかふかした、ぬるぬるした、あるいはひりひりしたものとなる契機をはらんではいないだろうか。

(うみのびん・情報学)

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